ウイルス病は古代から人類を悩ましてきた疾病です。最も古い動物ウイルス病の記録はギリシャの詩人ホメロスが叙事詩イーリアスに書いた狂犬病、および、エジプトのヒエログラフに描かれている小児麻痺と天然痘があります。植物ウイルスは人間や動物の病気には関係しませんが農業には重要であり、最古の植物ウイルス病の記録は17世紀の画家ロバートたちが描いたチューリップモザイクウイルスに感染したチューリップの絵とされていました。ヨーロッパ人たちは誇らしげに、その感染して変色したチューリップの油絵をウイルス学の教科書(1)に載せています。しかし、植物ウイルス学の権威である井上忠男・尾崎武司(原則、すべてのページで敬称略)が昭和55年に万葉集の孝謙天皇の御歌、
天皇・大后共に大納言藤原家に幸す(いでます)日に、もみてる澤蘭(さわあららぎ)一株抜き取り、内侍佐々貴山君に持たしめ、大納言藤原卿と陪従(べいじゅ)の太夫等と遣わし給う御歌一首
この里は継ぎて霜や置く夏の野に わが見し草はもみちたりけり、
がジェミニウイルスの感染を詠んだものであることを指摘しています(2,3)。この天平勝宝4年(西暦752年)の和歌は澤蘭(現在の名称では、サワヒヨドリ、キモンヒヨドリバナ等の説あり)がジェミニウイルスによりバイラス(virus)病となり夏季なのに黄葉(もみぢ)になったのを詠んだもので、今では植物ウイルスに関する世界最古の文献として確立しています。日本人は日本文明が欧州文明に劣らず素晴らしいものだということにもっと気づくべきだと思います。
ジェミニウイルスのジェミニ(gemini)とは双子という意味で、粒子形状が2つ団子のようであることからこの名称が来ています。21世紀に入ってから電子顕微鏡の技術が急速に発展し、ぼんやりと2つ団子型としか分からなかったものが、今ではウイルスの原子1つ1つの位置座標まで決定されるようになっています。下図は電子顕微鏡で決定された原子座標を用いて描画したジェミニウイルス粒子の外殻部分のグラフィックスです。なお、ジェミニウイルスは多粒子ウイルス(multipartite virus)の典型であるナノウイルスとも類縁性が近く(別途記事を書く予定)、興味深いウイルスです。内部の核酸遺伝子の構造はまだ不明確ですが、今後、研究が進むことでしょう。
原子座標さえ得られればどんなに巨大で精妙な分子構造であれ、分子動力学シミュレーションなどのモデリング計算により解析可能です。私もこれまで回転対称性境界条件という方法を発案して、口蹄疫ウイルス、ポリオウイルス、ライノウイルス、B型肝炎ウイルス、エコーウイルス、および、コクサッキーウイルスの分子動力学シミュレーションを実行してきました。しかし、ジェミニウイルスはこれらとは異なり、専門的な難しい言葉を使いますと「準等価仮説以外の方法で巨大なウイルス粒子を実現している特別なウイルス」なので、理論構造ウイルス学の大変興味深い研究対象です。
参考文献
- Principles of Virology, Fifth Edition, Vol. 1., J. Flint, V. R. Racaniello, G. F. Rall, T. Hatziioannou, A. M. Skalka, Eds., John Wiley & Sons, Inc., 2020.
- 井上忠男、尾崎武司、「植物ウイルス病に関するもっとも古い記録とみられる万葉集の歌について」、日植病報、46、49、1980.
- K. Saunders, I. D. Bedford, T. Yahara, J. Stanley, “The earliest recorded plant virus disease”, Nature 422, 832, 2003.
- K. Hipp, C. Grimm, H. Jeske, B. Bottcher, “Near-Atomic Resolution Structure of a Plant Geminivirus Determined by Electron Cryomicroscopy”, Structure 25, 1303, 2017.
米田茂隆、2018年8月、2022年1月改変